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【536】今昔開運プログラム教室 [ビジネス]

 組織の自我は集団の過半数の意志で決まると述べた【251】
 2020東京五輪だって、あれやこれやは拘らずコイツで行っちまえ、それで構わないんじゃないのと都民国民の過半数が割り切って納得してしまえる案があるならば、本来的な平和の祭典=良いコトとしての成就は十分あり得る。
 先のことは文字通り先送りにし、先を急ぐ行動に移って、勝算が見込める。

 裏返すと、利権屋のカネ儲けを『目的達成=成功』においた動機が見え隠れする限り、それが運営要職ポストの何番目あたりから、ナニがどう決まったと宣言されようが、日本社会からは無視され放置され敵視され、いずれ自滅の末路を辿ることになる。

 大勢の人間が関わる組織が起こすコトは、組織の自我にその決定権があるのだ。
 だから、神さま仏さまお天道さまには隠し事や偽り事をしないよう教わるんだろうな。

 …と再認識して、ちょっと東京五輪のハナシは一区切りつけよう。
 またで申し訳ないが、人工知能の普及につれどんな事態になりそうかというハナシである。

 まずは通信網の高速化・大容量化によりテレワークやテレラボ【533】が成立し、それらが上げてくる成果を集約処理する情報センターは、恐らく他に比べて機械化率が高くなる。どんな理屈を小難しく主張したところで結局のところ、所詮は『情報の判定と整理および保管』でしかないからだ。
 ここに人間が頻繁・多様に出入りする必要は、あんまり無いはずである。

 つまり通勤という最も日常的な人間の移動がまず数量的に減ることになり、さらにこれを個々人毎で見るなら、日常生活から通勤が減ればそれに付帯する移動もまた無くなる。これは社会が総じて出不精の引きこもりになる傾向だとして間違いは無かろう。
 通勤で出掛ける必要がなくなったのなら、わあい他の用事で出掛けようではなく、出掛けることそのものが無くていいじゃんとなり、出掛けなくて全生活を成立させていく側に向かう。そんな気がしていたのである。

 先日たまたまシンギュラリティをテーマにした討論会で、『人間は引きこもりになっていく』との将来予測が耳に入り、これが自分だけの感覚ではないのだなと思った。
 もっとも、これがいけない傾向かというと、高度経済成長期にあった御近所主体型の庶民生活ぐらいの雰囲気に戻るだけという見方もできるワケで、まあ手放しではダメなんだろうが、古き良き御近所コミュニティの再来を探る時代が来るのかも知れない。
 もちろんそうなったとして温故知新を売りにしたいなら、自分自身がオリジナルの時代を『善良で優れた実例』として生きておく必要があるのだけれど。

 最近NHKで放映されている『アトム・ザ・ビギニング』という漫画がなかなか面白く、特に『AIの最適解判定ロジックと人間の情操反応の共通点』を意識させるような描写が散見され興味深い。
 無邪気に正義の味方として振舞っていたオリジナルの鉄腕アトムだが、『アトム・ザ・ビギニング』のA106(エー・テン・シックス)は、あれの開発段階という設定だったんじゃないかなあ。たまたま番宣を見て、まんまと釣られ視聴している。

 あとAIなるテーマの考え方とは関係ないが、大学の研究室で課題に取り組む理系学生のイメージが、白衣の品行方正な優等生ではなく、勉強が得意なだけの逸脱した無頼漢という人物描写になっており、これは私個人の感覚としてかなり実態に近い。
 事情を知らない一般ピープルによる『いかにも』の頭脳労働者の姿は、想定としては月並だが実は激しく現実離れしているのだ。この『アトム・ザ・ビギニング』の提唱する研究者像には共感が持てる。外乱を遮断して、思考の現実化を完遂する素質のひとつだと思う。

 今回なんだか話があっちこっち行ってしまったが、一応ひとつの思考が走っており、みんなに肯定的に捉えてもらえる=組織を動かすような行動ロジックというものが普遍的に存在し、それは社会の高度情報化という変遷を経ても時代を超えて通用するもので、それって人間が実際にAIに組んで人工物として実現できるモノなのではないか。

 つまり人工物が、組織の自我を動かし始める日が訪れる。
 久し振りの『スカイネットの原理』で考える、組織のシンギュラリティの定義でした。

【535】ニッポン預金通帳の引き落とし予定額 [ビジネス]

 東京五輪は、ナニがどこまで進んでいるのか、進捗管理上の日程ビハインドがいくつで、いま安心して使える予算枠がいくつなのか、さっぱり判らない。我々世間の一般人が公開情報を頼りに把握できないというのではなく、本当に宙に浮いた混迷の闇になっているのだと思う。

 先週、小池都知事が都外仮設費用500億円の東京都負担を決めた。その是非はともかくとして、五輪開催の課題をひとつクリアし実現に一歩近づけた訳だ。
 都の代表者として、東京都組織は『来たる五輪は世界的な平和の祭典=良いコトとして、2020年にそれを本当の本当にやると判断したのですよ』と意思表示して見せたのである。

 途端に、まだアレが足りない、ここが全然決まってない、そもそもの初期計画値が全くの無謀だなんて今さらもいいところの空っぽ漫談が宙に放たれて発散、誰もまともな話ができやしない。何だコレ?
 開催は東京都だ、小池都知事はどうしてくれるんだと、卑劣なシケ面の出来損ないオトコどもが、安全地帯から遠巻きに攻め口調を決め込む姿が見苦しい。

 つい一昨年あたり、『ダメオヤジ裸劇の言い値で東京五輪が動いている事実』を日本社会が認識した。つまりマトモな辻褄の根拠など欠片も無いと。
 いま思うとえらいハナシである。

 何かをやるのなら、まず手元の原資を確かめるのが最初の作業だ。どんな原資も有限だから、それを投じてやれる事象も限られてくる。
 だから原資を切り分け、死なないための寿命維持ぶんを何年先いくつのイメージで捉え、どのくらいのチャレンジが許されそうかの身の丈の自意識をしっかり持たねばならない。
 身の丈の範疇で冷静に勝算に賭け、大成功とは言わないまでも、死なない程度の成果をつなぎ続けられれば文句はあるまい。

 大事なのは再度、元が限られているならやれることも限られているということである。
 どんなにささやかな規模であってもこの原理原則を守り、関係者一同ナニをどこまで実現するかの具体的イメージを実感として持つことが重要だと思う。
 原資と実行、その組み合わせで得る未来、およびその先の希望。
 この構想アッセンブリーから離れて物事を動かす術を私は知らない。要求値の感覚が固定できず、実感として腹に落ちない一時性の動機では、何も動かせないし、動かさないし、動かしてはいけない。
 あ、だからギャンブル素質が無いんだろうな。

 要は、関係者の頭の中でイメージと現実の整合を見失わないよう工夫することだと思う。
 わかりにくくて申し訳ないが、どこか運動や楽器の演奏と共通点があるような気がする。

 東京五輪に話を戻そう。
 日本国は、東京都は、2020年のたかが数週間に、何が欲しいのだろうか?
 欲しいものが言えたとして、現実には何が得られるのだろうか?
 そこに投じようとしている経費の額は、身の丈に合っているのだろうか?
 常識的な回収期間内で黒字ならまず結構。あるいは許容範囲の赤字を無念の勉強代で持ち出すまでは、みんな認めると思う。

 とんでもない高額費用の数値だけが情報の断片として飛び交い、またしても『誰かがなんとかするであろう架空のカネ』を引き充てないと埋まらないのが、今なおの五輪議論ではないのか。そろそろこのあたり進化したいところである。
 『東京都が決めないから困る』『小池都知事はどうするつもりだ』ではない。
 みんなで放任してやらかしちゃったんだから、その立て直しを支援する姿勢で五輪準備を語るのが筋ではないのか。

 コンパクトのはずが過去最高規模の額になっちゃいました、ではもう済まない。
 日本国は、自ら呼び込んで『やります!』と表明したんだから、コトをおのれの身の丈の範疇に収めて勝算を賭け実行するために、必要な見極めを譲ってはならない。
 本当に大事なのは、日本国の将来年表に納得の実績が、面積値として得られるかどうかである。

 正直のところ、成功に届かない確率はかなりのものだと腹を括るしかないが、『失敗を恐れるな』という言葉はこういうところで使うものだと思う。

【534】未来実験室行きの通勤定期 [ビジネス]

 次世代ワークライフバランス実験場に絡んで、もう少し。

 こういうのは、島を丸ごと『治外法権エリア』にしないと意味が無い。現状社会の常識で行き詰まっているから、他の解を探さねばならないのだ。
 周囲を世間の旧態依然が囲っていては、俗世間との不整合の違和感が取り組みをハンパにしてしまう。ラスベガス式の空気に包まれた特区管理【490】にしてやらないと、出足から『言ってるだけ』の空虚感が全てを支配し失敗確実の予感が溢れ返り、その雰囲気がまた更なるブレーキ効果となりあっという間にコトを頓挫させてしまう。
 ウォーターフロント埋立地の立地条件をうまく活用したいところだ。

 その昔、小さいとは言わないが、ちょっと田舎の街で工業団地の一角に勤めていた頃のこと。住まいを確保するため、地元の不動産屋さんに相談に乗ってもらっていた。
 『お客さんの職場を確かめて、街の反対側から薦めて行く。仕事気分を切り換えるためです』
 長きにわたって街の人々の住居選定に関わってきた御主人の経験則だから、単なる利便性だけを根拠に職場と住居を直近に置くのは注意が必要ということだろう。なるほどねえ。

 因みに自分自身はどうなったかというと、やはり薦められるがまま職場の反対側に住むことにして、約6キロ渋滞知らずの自家用車通勤で暮らしていた。気の向いた日には、帰宅途中で本屋や外食の寄り道をし、それにかかる時間なんか負担でも何でもない。
 振り返って、あれがまともに会社の筋向いだったとしても、あんまり悪い話は無かったように思う。ただ、例えば重大市場不具合が発生したり、自然災害で職場が停電したりすると、頼まれもしないのにやたら職場に行ってしまいそうな気はした。
 何にせよ、いわゆる『通勤負荷』の無い距離まで職場と住まいを近づける工夫は、それだけで結構クリエイティブな展開が期待できると考えている。

 ま、フロー状態が捻り出せれば仕事気分も余暇気分も境界ナシのごちゃ混ぜだし【485】
 これで思考模索が家庭の時間に割り込んだからって、良くないコト嫌なコトにはなり得ない。

 話を治外法権に戻そう。
 『社会生産としての労働』と『人間生活としての家庭』の共存形態を模索するのだから、例えば仕事面白すぎでやり過ぎて間違えて倒れたのがいたとして、その責任は本人にある。いっぽう仕事に目的意識が持てず、稼働率が赤字領域にまで割り込んだら、今度は問答無用で一方的解雇もあり得る。そうしないと実験にならない。
 工作現場バージョンで考えるなら、工作機械の使用法や製造現場の安全確保など自前で学んで身に付けておき自己管理で遂行すべきで、指を飛ばそうが高所から落ちようが原則は自己責任。他力本願のゆとりPL式に『誰が悪かった、誰に責任がある、健康や命より利益を優先した』云々でちいちいぱっぱと騒ぎたいアマチュアお子ちゃまはお呼びでない。プロの真価発揮が課題なんだから、そのぐらいの意識は必要だ。

 だから、こういう模索を請け負って自由に試せるように、自立・自律の強い意志と、知識・技能両面の高いスキルを磨いておきましょうってことになるんだろうな。
 昨今の学生さんを見ていると、社会のどんな生産活動も、就いて人に役立ち自分の生活を支えるものとして、信用が置けなくなっているように思う。それを真面目に一生懸命やって、自分が不当に搾取されたりせず、幸せになれるかどうかが疑わしいのだ。
 他ならぬ自分の幸福感のことゆえ、疑わしさの不満の訴えだけには終わらず、その不安を解消したいという切実な願い、解消するにはどうすればいいのかの疑念が伝わってくる。

 自分なりのペースでいろいろ試し尽くして、言い訳ナシの自分スケールで周囲と見比べて『よしっ、やれている!』と確信できるステップを踏ませないと、一人前の自信は育めない。労務管理において、心しておくべき要件意識だと思う。
 最近はこれをオーバーワークによる労災対策と綯い交ぜの対象にしてしまい、仕事ペースの自由度も、決着最優先の延長戦も、一律に絶対安全圏に閉じ込めてしまおうとするため、人材の能力開発が初歩的段階から躓きっぱなしの感が強い。
 これでは誰ひとり管理職にステップアップする検討に移れるはずもなく、人材の枯渇により労務管理が崩壊して、ブラック何とかが世に溢れて来るワケで、まあ自然と言えば自然な成り行きなのかも知れない。

 以上、何となく厄介な雰囲気の漂う雇用問題の原因究明および対策検討のネタとして、割と気にして絡んで来る人っているのではないかと思っている。
 手負いの巨大遺産は、将来日本の生産性を明るくひっくり返す企画で穴埋めしたい。

【533】災い転じて、未来実験室!? [ビジネス]

 前回の『技術のベーシックインカム』に続けてみる。
 そのコンセプトの発端は、子供時代に外で遊んでいて、町工場の旋盤・フライス盤に鍛造工程、廃材処理などを、ただの日常風景として眺めて興味を育んだ時代の記憶である。

 工作機械の作動音に耳を傾け、何だろうと覗きに行って、工員さんたちの手元を見ながら『ああ、こうやって造るのか』『こんな部品がここでできてるんだ』と理解したものだ。夕日を浴びながら、切削油の臭いに包まれ、木箱に山盛りになった切粉が表に出される。
 そのシーンは後に、大学の実験工場で作業を終え、ビールを楽しみに後片付けするウキウキ気分の記憶に変わっていった。
 そうそう、溶接だけは絶対に裸眼で見るなと父母の両方から固く禁じられていたんだよな。特段の専門知識がなくとも、かなり世間一般の常識として『溶接作業を直視すると目が潰れる』の教えは普及していたように思う。
 ともあれ昔も今も私にとって技術者仕事は、空調の効いた事務所のデスクワークではない。

 工作技術のテーマパークなんか、どこかでできないものだろうか?
 高額かけた最新のアトラクション設備なんか要らない。不遇の廃業を強いられた町工場から、安く工作機械を払下げてもらえれば十分に事足りる。割と日本中どこでも不景気に喘いでいる中小・零細規模の製造業はあるだろうから、作業をデモるプレゼンターの人材確保に困ることはなかろう。
 子供たちや学生さんたちが興味本位の自由な心境で作業現場を眺めてまわるうち、これらの次の時代の姿を今風の感覚で提案してくれたりしないだろうか。
 いずれは幼稚園児が目からウロコの革新的アイディアを発案し、自分のその技術の完成に巡り合せて、三十路前に自前技術で宇宙へ飛び出す。そのぐらいのエピソードが欲しいところだ。

 実は、ちょうど間近に似たようなコンセプトの職業疑似体験施設もあるし、豊洲に間違えて作ってしまった建屋なんかをアレンジできると良いのになと思った。何しろ土地が工業廃液や産業廃材に晒され続けていたから、元来そのセンで使うしかないのである。
 だが、ただでさえ計画外の床の盛り足しで強度に不安のある欠陥建屋ゆえ、ここに重い工作機械を多数持ち込んだりすることは到底ムリ。中が透けて見えるブースに区画分けしてあったりするのはデモ作業に向いてそうにも見えるんだが、いかんせん利権屋業者のインチキ設計で建った物件である事実は免れない。残念だが却下。
 うむう、一応はデカくて新しい建屋だし、モノ造りニッポンの新興文化発祥地にしてやれないかとも思ったが、こりゃちょっと無理があるかな。

 では発想を転換、重量物のない素材・薬剤の研究開発室アパートというのはどうだろうか。
 大学のケミカル系研究室なんかだと、無いとは言わないが大概は理科室レベル以上の重量級装置はあんまり見当たらず、一方で作業場換気や薬品廃棄の管理は最新機器できっちり整えておかねばならない。

 今後、化学・薬学系実験室あるいは精密機器組立工程のような『非プラント級』設備に関しては、恐らくは集合住宅あるいは一戸建て住宅地の一角に『テレラボ』を建てる形式が増えてくるのではないかと考えている。
 通勤負荷から解放されスーパーフレックスで自宅間近のテレラボに出勤してきた人々は、そこに隣接する託児所に子供を預けて気心知れた仲間内で面倒を見合うこととし、食事はちょいと帰宅して済ませることも可能だ。いつもテレラボで誰かがナニガシか仕事をしているのなら、宅配の受取窓口を置いてしまえば再配達の問題も解決できる。
 御社のナニナニ作業棟あるいはナニナニ実験棟なるものに、どなたが何回タッタカ走って往復しているかを調べ、もしかしてそれらの建屋を社宅に横付けした方が良い時代になってやしませんかというハナシである。
 こうなると、むしろ単純無機質な時短と四角四面な勤務管理なんか外した方が業務効率は上がるはず、まあ調子に乗って一杯ひっかけて仕事したりしないように気をつけるんでしょうな。

 この環境を得た人々が、どんな業態で、どんな家庭生活を組み立て始めるのか。
 これって注目度の高い社会実験になり、投資回収の見通しが立てられたりしないかね。

 …で、話を戻してそのトライアル実験の場として、豊洲の建屋なんか使えないかなと思ったワケです。近くに新しめの集合住宅も多そうだし。
 あの建屋が、だらしない邪心が建てちまった欠陥品なのはもうしょうがないとして、だからって建てたものを、全く使わず壊して更地に戻してタワーマンションってのももったいない。よっぽどの最終案にしとかないとバチが当たるぞ。
 元はケミカルプラントなんだからその素質には逆らわず、日本社会の将来像の模索に応じてアレンジ放題を試せる未来研究所の機能を持たせてやれないかと考えたのである。

 無理は禁物、きちんと考えて効果的な成立解を見つけるべきだ。モノは大事にしましょう♪

【532】安心安全の絶叫マシン乗車券 [ビジネス]

 高速道路のゴールデンウィーク渋滞予想を眺めていて、感心する。
 渋滞する場所と日時を特定した途端、それを見た人々がそこを回避しようとするはずなのだ。だからそのウラをかいて予想を組み立てるんだよな。でも何割かはそれを見越してウラ渋滞予想まで読んで高速に乗るはずで…
 AIが不得意とする『仮定の先の仮定』が何重にもなっており、これでは計算量が大爆発だ。

 もっとも毎年の『予想vs実績』事例を着々と蓄積し、『結局がところ、どう予想を発表すれば、どう渋滞するのか』という相関をハジき出すのは、やはり機械学習のお手のものということになる。
 皆さん、渋滞予想を見て自分なりにマジメ精一杯の思考検討で、善良かつ真摯に渋滞回避を目指しましょうね。
 素直な判断力に預けるなら、まず何はどうあれ『自分が実直な判りやすい対象でいる』ことを保証する心掛けが前提となる。

 姉が亡くなる前後、姉の住まいの面倒を見るため高速道路をかなりの頻度で利用したものだ。当時あの『高速料金一律1,000円』が施行されており、随分と助かったのを憶えている。
 逆走車と鉢合わせする可能性など夢にも思うことなく、深夜の時間帯も安心して飛ばしていたものだ。

 あの自動車専用道路の出口から侵入してしまう理由は不可解だが、その随分と先の本流にまで進んでしまう理由はもっと不可解である。私の感覚の限りでは、『つい』や『うっかり』の認識洩れがあったとして、本流に到達するまでの道程のどこかで気付いて然るべきとしか思えない。
 逆走事故が、実は認識洩れ以外の原因で起こっているのか、はたまた私の感覚が現実と食い違っているだけなのかは不明だが、いま現在とにかく逆走事故は散発している。

 逆走防止策については公募も行われていたようで、その内容も公開されているようだ。
 ふーん…と目を通し、私も帰省渋滞のテレビ映像で、灯火の大河を眺めていて思い付いた。
 小型のLED発光ユニットである。
 製品イメージはホームセンターで御馴染みの、ガーデニング用の太陽電池式ランプに近い。地面にぐさっと刺しておくと夜に勝手に光るアレ、あれをできるだけ小型化して輝度を上げ、耐候性を持たせてポール先端やガードレール上縁に固定できる形状にする。

 設置形態は簡単で、車が出口側から侵入しようとすると白色光が道の両側にずらりと並んで見えるようにする、ただそれだけ。
 自動点灯なんか不要の昼夜問わず点きっぱなしでもOK、ホントは夜間にずっと光ってて欲しいが、まずは開発期間とコストのミニマム化を最優先し、ユニット内臓の蓄電池でなりゆき頑張れる時間だけ光ってくれれば許す。
 一定輝度の白色光が運転者の視界に突き刺さって来れば、対向車のヘッドライトを連想して逆走に気付いてくれないかという狙いだ。視認輝度、水密性、耐久性、夜間発光時間や寿命など、諸性能を確保するための既存技術は今日一定の水準に達しており、誰でも作りやすいと思う。
 配線不要、自己完結デバイスのポン付けなので、光ってさえくれれば手あたり次第の数社製混在になっても問題は無い。思いつき都度、いつどこでも取り掛かれる。

 さて普通ならば、公開入札を経て発注先を2~3社程度に絞り込み、できる限り発注数をまとめて単価を下げたいところだが、ちょっと違うことを考えてみた。
 発注ロットの単位タマ数を割と少な目にし、いくつもの会社に各々のロットを頑張らせ競わせるのである。どうせブツがメカ的にしょぼいから、コストの非効率代は無茶な怪我にはならない。但し、現状の日本社会の空気だと利権仕込みなど悪いことをするヤツが出て来る恐れもあるので、この事業に関しては全てを無条件で完全公開とする。もちろん契約に関わる保管書類も全ページ海苔弁禁止だ。

 こうして需要の場と基本構造の提供までやっておいて、この『技術のベーシックインカム』に食いついた技術者連中が、何をどう面白く発展させて来るかが本丸の刈り取りターゲットだ。
 だからだが、むしろ潜在的な技術力はありそうなのに、不遇のピンチにあえいでいる中小企業なんかからやらせてみた方が効果的なのかも知れない。同時に公共工事のオープン化の雛型実績にもすると。

 もっとも、まず白色LED発光ユニットに逆走事故の防止効果があればの話なんだが…
 …とここまで書いたところで、珍しく途中で割り込まれてしまった。いいや、続けてみよう。

 若い人たちの感覚が自分たちのそれと異なるものであることを、我々世代は知っておく必要があると述べたが【518】、さっき自動運転機能車の購入相談を持ちかけられ、今度は高齢世代の感覚を切実に解説され衝撃を受けたのですよ。
 聞いた限りにおいて、『文字を読み取る』『表示を確認する』ことで自らの逆走を検知するコンセプトは、まだ運転者の自律能力に頼り過ぎだと思われる。
 お!『プチ・ハイビーム目潰し』の提案、なかなかいいセンいってるじゃないの。

 もともとが近眼でなかったお方なのだが、何しろ裸眼で焦点が合うのは2メートルより向こうというから、運転席の全ては基本的に完全明瞭に見えていない。
 中でもいちばん不便なのがナビ画面だという。老眼鏡をかければ良いとは言うけれど、2メートル以内では距離別の眼鏡が欲しくなるとのこと。

 ナビ画面の十数センチ上空に読書レンズみたいなのを後付けしたとしても、凸レンズだから拡大されてしまい画面全域が俯瞰できない。空調風は蹴られるし、だいたい収斂火災のドンピシャ自殺行為じゃないか。
 つい最近バックミラーに替わる後方視界モニターが解禁になったが、鏡でなくなるとディスプレイ画面のまさにその距離に焦点を合わせないと映っている画像が見えないから、これまた後ろが確認できずアウトである。
 いくら近眼が増えたとはいえ『非・近眼から加齢した高齢者』は結構な数がいると思われ、このあたりを冷や水で頑張られてしまうと、『周辺事情の認知vs車内の自己操作』が互いに激しく阻害し合いながらバーター進行するという、非常に危険な運転状態に陥ることになろう。
 逆走事故を起こした運転者の視力について調べると、何か相関が出るかもしれない。

 極め付けには、仮に自動運転が実用化されたとして『うわ~危ない危ない!もっとゆっくり!』と前方視界に視力がついていけず恐怖で気絶するかも知れない、とおっしゃる。
 なるほど確かにな。
 『人並以上の、車好きの運転好きが』だ。

 忘れないうちにと慌てて書いたので、随分まとまりが酷い回だが、そこそこ実用的な情報が載ってるのではないでしょうか?
 皆さま、どうか安全運転で楽しいゴールデンウィークを。

【531】柔らかプラン、いつもの明日また明日 [ビジネス]

 もう少し、予動としての未来イメージの話を。
 この未来イメージ、必ずしも構成の詳細まで明確である必要はなく、時として精度も相当いい加減で大丈夫な場合が珍しくない。
 だからといって最初から確信犯の夢見ユルユル青写真ではどうしようもなく、要は『本人がその気になって、その予動から自然な動作を楽しく引き出せればオッケー』ということだ。

 いざやり始めてみたら予想とえらく違っていて、動作中に次々と方針変更が必要になるのは珍しくない。よって、ただの追及力不足になってしまわない限り、舵と加減速はいつでも自由自在にしておくのがよろしい。詰めてもしょうがない計画値まで唸って無理に詰め、実態が違ってきているのにその計画値にこだわっていても、負担が増して生産性が落ちるばかりだ。
 寿司屋を志して始めたが問題噴出、無我夢中で手を打ち続け、気付いてみたら大評判の洋食屋という成功事例は、何よりまずそれを許す柔軟性あってのことである。

 未来を先読みしてマジメにユルく意識する事前思考法は、このあたりを解ってうまく役立てたいものだ。
 計画立案に深く悩まず実績のなりゆきを重荷にしないタイプは、このさじ加減が上手いような気がする。少々の読み外しに構えの重心を持って行かれない技量と体力を備えたら、それを正確に自覚して、適宜未来イメージに融通を利かせて精度の追及をすっぱり切り上げるのだ。
 職場の精度予測の固定観念にとらわれて闇雲な過負荷計画に陥っている兆候を感じたら【117】、このコンセプトを敢えて強調しての再検討をお勧めしたい。

 何事も山あり谷あり、真珠を養殖する途中で波打ち際に格子沈めて貝を撒くステップがあるんなら【510】、それを確実に履行しないと先は無い。おのれの制御のまだ及ばない原始的な検討段階では、収穫成果は自然の確率に翻弄され増減するから、そのされるがままを見て考えて、手を打つトライアル工程が必ず発生する。末永くやりたいなら背水の陣は避け、この時間は大急ぎにしても必要ぶん丁寧にかけねばなるまい。
 万が一通りがかりに真珠の山に出遭っても、今日も安心して白御飯におしんこと味噌汁で食事ができるなら、浮足立たず浜辺の格子をメンテして、おっと高価な落し物の届けは出しておこうか、あとは帰っていつもの飯を機嫌よく食っとけばよかろう。
 良いメシを食うのは、いずれ最初の真珠一粒が採れた時のお祝いにして機会を待ってもバチは当たるまい。

 ひとつ採れたら、みっつを狙う。みっつ採れたら、5個を狙う。5個採れたら、次は10個だ。
 5年後に毎年10個が安定して手に入れば、継時劣化による市場のターンオーバー需要と十分釣り合うから、まずコイツが第一次至上目標でいくか…みたいな双六式のチャレンジがやり易いと思う。

 もっとも、ある日まったく劣化せず初期品質も天然と見分けがつかないような人造素材の真珠が開発されたりしたら、今度はこだわらず一気にコンピュータープログラマーにでも目標を鞍替えするんだろうな。
 今の時代、本筋の邪魔にならないなら、普段から他流オプションの準備に気を遣っておいて間違いは無い。抗えぬ時代の変遷に肩落としていても良いコト無いワケで。

 ところで、私の家系がハワイ入植の歴史を持つという話はした【355】
 当時すでにタイタニック級・全長200m超の大型船が就航しており、一応は安心サイズの外洋船があったものと思われるが、それでも電子航行機器なんか無かったはずで、改めて世界地図を眺めると、よくそれで広島から太平洋上のハワイ諸島にまでちゃんと行き着けたなと感心することしきりである。
 ちゃんと着いたとして、今度はいつカッチリ帰国するという計画が成り立っていたとも思えず、みんな見た事も無い渡航先ハワイで永住の可能性を随分と計算に入れ腹を括っていたのではなかろうか。事実ウチの祖先はあっちで何人か土に帰っちまって、墓参りにも行けないし。

 思うに、当時の世界観で桁外れに見当のつかない未来の振幅めがけて、長年なじみ切った自国の岸壁から漕ぎ出す瞬間があったはずなのだ。
 よほど国内の生活が困窮して行き詰まり、飛び出すしかなかったのか。
 『常夏の天国』とでも国政にそそのかされて、ついその気になったのか。
 でも胸躍って楽しかったろうな。ちょっと羨ましい。
 ハワイ着岸、そして初上陸の第一歩はどんな感触だったのだろうか。

 いま同じ気分を味わおうとしたら、出て行く先は宇宙になるのかも知れない。
 今の時代の特権だろう。若者たち、やってみたまえ!

 …とここまで焚き付けて注意を一点。
 この大まか極まる出たとこ勝負の未来絵図に飛び込むには、何よりもまず健康優良児でありたい。調子を崩したらオワリだとまでは言わないが、不本意のリミッターが効いている姿が自分でよく見える景色というのは、本当に悔しくもどかしいもんだ。この数年で思い知った。

 自分の学生時代を振り返って、テレビ・ラジオなどの深夜文化が元気だった時代とはいえ、いい子ちゃんの健康タイムスケジュールに喧嘩を売るかのように就寝時刻は午前3時過ぎが当たり前であった。もうちょっとトシ喰って、『健康が会話のネタになるともう年寄りだ』という定番の自虐基準もあったっけ。
 私の目に付く昨今の若い人には、この手の意味不明の反骨精神は目立たないような気もするのだが、実際のところどうなのだろう?

 いいから寝食は正常に確保、日頃を大事にしなさいって。おっさん悪いコト言わないからさ。

【530】人機対抗ドリームコンペの常勝者 [ビジネス]

 自分の若い頃を思い出すに、どんな道を選ぼうとも、仕事でそこそこ行けてる連中は『こうなりたい』というビジョンがはっきりしていたと思う。
 その場の尺を埋めるため、ただ質問を投げかけることそれ自体を目的にするのではなく、次の時代をチラ見するような軽やかな興味本位で、学生さんや新人世代に『あなたの夢は何ですか?』という質問をするが一昔前の会話作法の定番だった。
 答える方も深刻に考え込むほどもなく、『社長になってランボルギーニに乗る』とか『結婚して娘とケーキ屋さんをやる』とか、実はかなり具体性が高く実現ステップも明確に刻みやすい夢のイメージを、ごく自然に返してきていた気がする。そのために要する資本金の額や、社会からの認知度・羨望度あたりの低俗な?諸課題はちょいと横へ置いといて、『純粋に自分の好きなもの=自然体の理想像』を感じたままに組み上げた構想であることに注目しよう。

 三十路そこそこの私【525】から更に遡り、三十路チョイ前の時代のメモも発掘されている。

 『本来、生産活動の意義は単に生活の経済面維持だけであってはならず、精神的な充足を作り出すものでもあるべき』
 『自由競争社会に於いて組織を運営するにあたり、構成員の行動意欲を組織の収益活動に一致させることはマネジメントの最重要課題』
 『昇給システムでも福利厚生の充実化でもなく、仕事そのものに対する意識のポジティブ化こそ総力をあげて取り組むべきなのではないか』

 この時代、私は毎年迎える新人たちから『寝食を忘れるほど大好きな趣味』や『絶対こうなっていたい人生の夢』を聞き出すことを至上の楽しみとしていた。それらを基軸としたサラリーマン生活を各自が存分に組むために、自分はどんな接し方で育てれば良いのか、どんな仕事の形態を用意すれば幅広く皆が元気に頑張れるのか、そんなことばかり考えていた。
 『夢と業務目標を一致させるため』の、汎用性高い方法論を構築したかったのだろう。
 もちろん現実はそんなに崇高で格好いいモノでもなかったワケだが、まあ連日ドタバタと慌ただしく過ごすうち、若手くんが苦笑いしながら『作業場のみんなに、先輩と芸風が似てきたと笑われてしまいました…』と報告してくれた時にはまんざらでもなく、秘かにほくそ笑んだものである。
 これが世間一般の常識でもなかったと思うけれど、それにしても自分の関わる仕事が世代交代していく姿にワクワクした期待感が懐かしい。良い環境に恵まれて一番楽しんでいたのは私だったりして。

 これが今や『Q:就きたい職業は何ですか?/A:公務員』みたいな問答が、小学生相手で定番入りするような事態に変質してしまっているのである【476】
 基本、自分ならではの積極的な動機やそこに根差した働きかけとは全く別の事として、その立場を得るための関門さえクリアすれば後はラクとカネが手に入る、人生それでいい、仕事なんてそんなもんだという意味だろう。返すがえす、具体的な職種を答えてくれよ、頼むよ。

 こんな社会風潮で『働き方改革』なんぞと陳腐な寝言を口走ってみたところで、何の良いことも起こり得ないと保証する。まず手を打つべきは『こんな社会風潮』の方である。
 『こうしたい』『こうなりたい』と未来をイメージし、その実現過程を刻んで楽しみながら仕事をすることができなくなっているのが問題ではないのか。社会の生産活動において、『未来を描く』という予動がきちんと取れていないのだ。

 アナタは身をかがめず飛び上がることができるだろうか。
 到達点の狙いもつけず飛んだとして、適切な力加減を量れるだろうか。

 AI思考プロセス構築の技術的ハードルのひとつとしてあるのは、仮定の先の仮定がどんどん膨らんで計算量が爆発することだという【521】【522】
 手近な例を挙げるなら、今この作業が1分後に予定より1秒遅れたとすれば、その1秒の遅れが引き起こし得るトラブルの可能性とはどんなものになりそうか?
 次工程のスタートを1秒待たせる間に停電するかも知れない。異物が噛むかも知れない。
 とすると、それら種々のトラブルが各々その先で起こし得るトラブルとは…?
 みるみる枝葉が拡がり計算量が大爆発だ。どうせ迎える現実は、たった一本の道なのに。

 我々人間みたく時間の無駄に気付いて停止できないため、取り越し苦労というにはあまりに致命的な歩留りの悪さである。演算速度を上げれば上げるほど仮想事例数が増え、判断作業の材料として採るに値するかどうかの判定タスクも増える。高性能であればあるほど無駄が増える始末の悪さだ。ならば。

 AIに『先に将来の夢を与えてしまい、そこに向かって情報処理を収束させる』というコンセプトのプログラムは成立しないだろうか。まだまだ思いつき始めの放言に近い段階だが、誤解を恐れずエイヤっと乱暴に噛み砕いて述べると、こんな感じ。
 シンギュラリティ的な観点ではいきなり邪道な雰囲気も漂うものの、『いいから規定時間に目標台数ぶん組み立てて、とっとと歓喜の万歳コールやっちまおうよ』と固定の願望プログラムを先に人力で入力してしまう。…で、1時間に100台とか。
 まずはお気楽テキトーなラインスピードで動き出しといて、6分経過した時点で幾つ完成しているか見て、そこで次をどうするか決める。そうだな、30分も経ったところで30個にも届いていないようなら、その時点でアラーム発信と共にギブアップ停止。
 こうなったら人間くんが『1時間100台』を下方修正するか、ラインを物理的に改変して工程処理速度を上げるか、いずれかを選択するしかないし、そうすれば良い。
 人間くんも機械くんも、まず未来に向けて夢馳せるところから、楽しく生産性が高く成長の糧にもなる、充実した仕事が始まるのではないか。ダメなものはダメ、の見限りもまた然りだ。

 『働き方改革』とやらのトンチンカンたる所以を、ここなりに一回ぶん考察してみました。
 ニッポン技術立国を頑張ってAIの有効稼動が拡大するにつれ、いずれ活き活きと夢いっぱいで仕事を楽しむ機械くんを、しょぼくれやつれた人間どもが羨む姿が日常的になるのかも知れない。

 そのうちの一人にならないように、ゴールデンウィークのいつまでに、何をしましょうかね?

【529】漫然バケーションの時空ツアー日程 [ビジネス]

 前回の連結器の話を組織サイズでマクロ視すると、日本社会という巨大生物の自我が『よし、変わろう』と決心して節目付け、他の活動を1日休んで生産性の高い自分にグレードアップしたことになる。
 これよりも日本史上における重量感が段違いに増すけれど、明治維新なんかだと、自分自身の人生観が変わるか変わらないか・生き方を変えるか変えないか迷って葛藤し、ひと悶着もふた悶着もあって最終的に変わった・変えた感じだ。
 日本国組織のどんな自我が何を考え、どう歴史年表を通り抜けて来たのか推察してみると面白い。御社のマネジメント研修にいかがでしょうか。

 高度経済成長期があながち手放しの1億総天国というワケでもなかった話はしたが【515】、それでも今日より明日、何か便利になり、新しいモノが増え、いま以上の満足感で暮らしていけそうな気もする世の中であった。楽しいかどうかは別として、充実した未来の生活を計画するのが人生の必須課題であった。
 さあて、明日は何をしようか?5年後10年後にはどうなっていそうで、どうしていたいのか?
 いちいち気合を入れなくても、人々の頭の中にそのコトが自然発生していたのだ。

 これがバブル崩壊を機に、日本社会の全域から消失したように思う。
 自分や社会の将来像は訊かれてようやくヒネり出すモノとなり、『ただ今の時間を今あるままにやり過ごすだけで精一杯』の感ですっかり置き換わってしまったのである。
 日本国組織が将来展望としての未来自画像を見失い、『無意識』の時代の歴史を刻み始めたのだ【522】
 これ以降、携帯電話やパソコンに代表される情報通信機器などがそれなりの相応に進化はしたが、社会にデビューしてくる新価値にはやたら空虚感が付き纏い【20】【137】【138】【327】、『今の日本ってこんな国です、こんなことをやってます』という自己イメージが何とも怪しくなってしまった。
 まさにこの頃から、清算完了の決着をハナっから放棄した、だらしない無責任だけの国家債務が青天井で積み上がっていく。

 もういっちょ前回冒頭のダメノミクスの話も後付けで盛り足す形でいくと、それをやって良いコトありそうな勝算がガチでみんなの心に芽生えていたなら、もっともっと経済のあちこちから物価・賃金引上げを推進する協力的な姿勢が自発してきていたはずだ。『社会の自我がその気を起こしている』というのはそういうことである。
 裏返すと、もうダメノミクスなんか皆の幸福を願う誠実な経済改善案でないことを社会が確信しており、こんなものどうなっても、いやどう潰れようとも構わないと見限ったことになる。
 正々堂々道理に則った真剣勝負で国家経済を好転させようとせず、自分都合の悪いコトばかり企んで仕組んだのだから当然の帰結としか言いようがない。現政権の支持率がいくつだとか時々メディアでやっているが、そんな数字と国民の良心的・平和的同調は一切関係ない。
 裏切られた無念を認めた組織の自我は、底抜けに冷徹なものだ。

 知らぬが仏とは、まさにこのことだろうか。
 右傾ガッコ設立に絡むおのれの汚職の疑惑も薄ら誤魔化したまま、人目に付く場でわざと『忖度』という言葉を自分に当てつけて、『ボクちゃん効いてないもん、平気だもん、気にしてないもん♪』と幼い反抗心で意地を張って見せてしまったのには呆れた。まあひと頃は、やれリーダーだ、やれ責任者だと勇ましかったからねえ。
 その場では流れで笑ってくれた聴衆もいたようで、少しは気が済んだかも知れないが、失ったものは本人青ざめるほど大きいと思う。昔なら『立場上、思っても言わない方が良いコト』の感覚と自制心は身に付いてた年頃なんだが…

 日本社会の自我が具体的な将来展望を描けず無意識の生活を送っていたからには、日本国民の過半数が同じ状態に陥っているはずである。そこで質問。
 あなたは5年後10年後、どんな社会環境で、どうなっていたいだろうか?
 その社会環境は他人任せではなく狙って作り込んで行かないと実現しないし、自分自身の将来像となると尚更のことである。
 その社会は、周囲みんなが十分満たされて思い思いの生活を送っていて、あなた自身はそこで幸せに暮らしているだろうか?…なんか初回がフラッシュバックするなあ。
 で、現状からその未来絵図に到るまでの道程はどう刻まれていて、直近1行程を実現するために、今あなたは何をしているのだろうか?明日あなたは何をするのだろうか?

 それを自分で決めないから、『アホの巣窟』や『ドン』とやらの食い物にされてしまった。
 あれに任せていた事実は、身に沁みて後悔すべきだ。

 それじゃみんな面白くないでしょってことで良心的なお節介にひと肌脱いで、あなた方に先回りして万人向けのフェアな社会環境の構築から始めたのが、橋下政治勢力であり小池旋風なのだと思う。
 よって本来は旧態依然組を相手に、どっちが押した押された、あれで失点したぶんこれでやり返す、どこそこのナンタラ集団と遠い近い、だからくっつく離れるといった類の勢力合戦とは質の違う、『無意識離脱』なる社会フェーズの進展現象と理解するのが正しい。
 ただ議会制民主主義においては多数決で物事を進める原則があるため、『無意識離脱』推進派は法治国家の意思決定プロセスでその関門を勝ち抜く必要があり、つまるところベタで低俗な?ボーディング規模の獲得戦略が、決定的要件となって絡んで来ざるを得ない。

 この社会変遷現象と議席数確保戦略をきちんと分けて話ができているかどうかが、まずはマトモそうな議論か否かのひとつの目安だと思っている。

 以上、5年後10年後のことを真面目に夢見るゴールデンウィーク、いかがでしょうか。

【528】鉄ちゃん流イノベ日本史 [ビジネス]

 『脱デフレは大いなるイリュージョンだった』と流通大手イオンが値下げ路線への転換を表明、大手コンビニもすぐに続いた。日本経済の日常消費に最も身近な業界が、ダメノミクスの裸踊りに決別を宣言した訳だ。
 良心的に賃上げ率先をデモったのもこの業界であったことが思い出される。政策の少々のアラには目をつぶってでも、世のため皆のため好景気のためを優先して、『ウチはやる、みんなで頑張ろうぜ!』と調子を合わせてくれた、その業界に愛想を尽かされたってことだ。

 ハイお疲れさまでした、正解でしょ。前回も今回も、その公共心に敬意を表する。
 何しろ景気好転の一助となる心意気で物価上昇の一端を引き受けて、仮に実績らしきものが見えてしまっていたらその途端、『ほ~ら好景気だもんね、軽減税率やっていいんだもんね~』とばかりに、その貴重な努力代は超巨大無駄公務・一大利権帝国発足の引き金にされていた。実に、そのために毎年こっそりと奇妙な予算がつけられている【443】【514】
 誠実に頑張った成果の無残な行方を前に、バカを見てオシマイになる結末だったワケで。

 繰り返すが、仮に物価上昇や賃上げの見通しがついたらついたで、その実行に先立っては軽減税率の完全撲滅が必須条件である。
 あ、もちろんだが『消費税率の再引き上げには軽減税率導入がセット』なんて話は、まだ検討の段階からして微塵も始まっていないことを確認しておこう。
 『もし万が一、上記の予算が軽減税率の強行導入の準備につながるようなことでもあったら』のハナシだが、その時は『日本国民の経済意識を裏切る国家的詐欺』と表現しておかしくない進め方だと思う。
 利権外の一般国民で、これをやった方が【435】有難いという奇特な人間はどこにいる?

 さて、昔の常識なら空前の商売繁盛で、飛ぶ鳥をも落とす勢いだったはずの運送業界だが、この時代にあっては低価格・高サービスが度を越した結果の過剰繁忙であり、苛烈な現場事情に大幅な業態是正がなされたのは御存知の通りだ。
 踏切で電気機関車『桃太郎』に引かれるコンテナ列車の通過を待ちながら、今このコンテナで移動するのはどんな種類の貨物なのだろうと、ふと考えた。
 実は、この日本国において、かつて日取りを決めて輸送を一旦停止し、全ての鉄道車輌の連結器を一斉交換した歴史があるのだ。まずまず有名な話だから御存知の方も多いかな。

 古くは、鉄道車輌たちはみな『ねじ式連結器』でつなげられていた。
 ぶっちゃけネックレスの繋ぎ環みたいなもので、要は輪っかにカギをひっかける形式である。ただこれだと引張り方向はともかく、突き当て方向に力を受けると車輌同士がガチャガチャ衝突してしまい、うるさいし壊れる。
 だからなのだが、ほら欧州の鉄道なんかで連結器の左右両側に円筒みたいなのが1本ずつ伸びてたりするではないですか。あれにはバネが仕込まれており、押し込まれながらつながって、連結した相手車輌とお互い突張り合う仕掛けになっている。こうして連結器の繋ぎ環については、常に引張り状態に保つのである。

 では問題。輪っかと輪っか、カギとカギが出遭ってしまったらどうするのか?

 驚くなかれ、ベタにいちいち取り外してつけ直すのである。
 …え?鉄道の連結器って何キロあるんだ?と思うその感覚は正しく、実際タイヘンに時間がかかる線路上の危険な作業で、事故も死傷者も多かったという。

 ところで我々昭和世代が連結器といえば、片手を反転させ、両手で互いの指を掛け合い握り合う動作で真似るのが一般的だと思う。
 この形式を『自動連結器』と呼び、昭和40年代まではそこらの電車まで含めて、鉄道の連結器といえば基本全部がこれであった。引張り・突き当て両方向の荷重をこれ一本で受けとめることができ、輪っかとカギの区別もない。よって作業員が線路に降りる必要もなくなり事故も防げる優れモノである。
 人間の手と違って鋼鉄のマジックハンドが握り合うので、実は少しだが連結した時にガタを持っており、故に機関車が貨物列車を引いて発進する場合など、機関車にとっては貨車を1輌ずつ引き出すことになるので一気に牽引負荷がかからない。自動連結器は良いことずくめだったのである。

 そこで、と言ってしまうだけならホントに簡単だが、とにかく統計上『年間で一番輸送の需要が少ない日』を選んで鉄道を一日止め、ねじ式連結器から自動連結器に一斉交換したのである。
 今ちょっと調べてみたら1925年(大正14年)のこと、本州は7月17日、九州は7月20日と異なる日取りだったそうだ。もちろん車輌総数もまだ少なかったのだろうが、それにしても自動車や飛行機の輸送力が無かった時代によく思い切ったものだと感心する。
 その日は日本社会にとって、どんな一日だったのだろうか。連結器を交換する現場以外は、『今日は汽車が動かんからねえ』程度で済んでしまったような気もするが、なんかこういうの一度やってみたい気もするなあ。

 就職して割と早々の頃、『以前に自分たちでやったことを否定するのもおかしな話だから』という論法をたびたび耳にして不思議に思った。それでは過ちが正せないし、進歩もできないじゃないの。
 しかしすぐに理由が理解できてしまう。大きな開発組織で分業体制を採ると、物事を進めるのに大勢相手のある調整が動くことになるため、見解の転換が自分一人だけのことでなくなるのである。
 大勢に手間を発生させ面倒がられるし、全員にきちんと改変のコンセプトとその周辺事情を理解してもらわないと、始末に悪い新規トラブルだって散発する。

 なるほど~、だから過去を否定するのはやめとくのが良いんですね、ではない。
 そうなってしまうからこそ力不足は旧態依然に陥りがち、と理解するのが正しい。

 次が画期的なら、連結する相手や周辺まで巻き込んで、腕ずくで交換していくんだよ。
 今も貨物列車で現役の自動連結器が見れるはずだ。このゴールデン・ウィークのお手軽課題にしてみてはいかがだろうか。

【527】ニッポン保育園の給食改善工程表 [ビジネス]

 築地市場の改修案、7ヶ年で7百億台の前半か。
 裏の裏まであそこを歩き回ってこの目で確かめた訳じゃないが、プラントみたく重量級の特殊デバイスは無いだろうから非現実的な程の難工事では全然ないはず、額としちゃ少々積んだかなとも思うけど。
 まあ店子さんたちの一時退避その他、ブツにならない経費も乗ってくるはずなのか。公共工事の初期案だし、ケタは合ってるし、当面はこんなもんなんだろうな。関係者が多数絡むのと、高いところから低いところへどうにでも流れてしまう水回りが広範囲かつ複雑だろうから、分割した工区毎をうまくつないでいく詳細計画と進捗管理が面倒そうかな。

 成功条件が『築地で営業を続けたいと思う気持ちがどれだけ強いか』ってのが引掛る。
 だって元々そうするのが普通なんだし、普通にやれば?という言葉しか出て来ない。築地を改修・再整備しないなら、また他の土地探してゼロから新設するしかないだろう。

 氷山で底が抜けたタイタニック号じゃあるまいし、ただの地上建屋からなんで始終水を掻い出さなきゃならんのだ?ウォーターフロント最前線の埋立地だから潮汐の周期変動で地下水圧が押し引きを繰り返すし、外から浸み込むのはただの海水なのに、建屋地下室の底から浸み出すのは何故か強アルカリ水。途中に何が起こっているのか、まるで見当もつかない。
 この期に及んで開けてびっくり、こんなものハナから安心でも安全でもなく、法規適合性がどうたら議論する遥か以前の想定外の次元にある致命的欠陥であり、『状況が一切不明で、いま悪いモノしか出て来てないから食品市場には不適合』以上に言うことあるのか?
 ダメ押しに、坪1トンの面積掛けで計画外に積み足したという上階床のコンクリの件、みんな口つぐんでるが技術屋の常識目線なら強度計算があっさり破綻してるぞ。これを『問題ない』と言いたいなら、その診断やった奴を責任者に立てて公然とやらなきゃ通らない。気は確かか、どこのどいつがそう言った?

 よく戦争ネタで『当時の国家体制ゆえの1億総発狂』みたいなことを口走る左巻きがいるが、何のことはない、この現代社会でも利権に目が眩んでこんなに大勢が発狂してんじゃん。どんな体制のどんな意思決定でこんな破滅的失敗が起こるのか、必要都度リアルタイムの直談判インタビュー交えながら、がっつり研究できると思うんだがね。
 たまには若い人たち以外にも言ってやろう、戦争批判のその勢いで、やってみたまえ!

 さてここで、橋下大阪市長時代に大阪都構想の初期投資額が600億円で提案されていたことを思い出そう【371】
 大阪府市二重行政により、大阪府の中心に位置する大阪市域の中では、府と市の自治体運営機能が重複してしまっている。本来なら大阪府の形の板一枚があったとして、その運営機能はひとつあればよく、但し大阪市においては人口も機能も集中しているため、相応の自己完結性を持つ特別区に割って各々に自治を任せればよかろう。当時としては、こんなハナシであった。

 何しろ大阪府の板一枚の上から、真ん中だけ大阪市の形の板をもう一枚重ねて、府の板と市の板が利権動機の税金資本で威張りあいいがみ合うのだ。場当たりの不毛な役所間の競争に税金が湯水のように使い捨てられ、地域の将来展望がまともに維持できない事態に陥ったのも当然といえる。
 つまりは余計な板一枚分の厚みを削らなきゃダメでしょ、ということで、まず市の板つまり大阪市議会を解体して無くし、残った一枚分の厚みを、地域特色を各々打ち出す5区の組み合わせ板で埋めよう。こんな構想だったワケだ。

 【371】当時、私は600億の初期投資額をもって『倹約に感心する』と述べているが、今回ざっくりのざくざくでも感覚を養っておいていただけると嬉しい。役所建屋なら新設しても原則事務所機能に通信インフラで済むので、地盤改良や高機能建築に水道光熱・給排水もろもろの大変さが無い。とはいえ他の諸費目まで加えてこの額ということは、つまり『現有で使えるものは目いっぱい使う』を基本によく頑張ったんじゃないかなあという数字に見えたのですよ。
 ついでなので言及しておくと、今や馬鹿馬鹿しさが怖くて誰も口にしない新・国立競技場の建設費が、ずっこけた時点で3,000億、見直された時点で1,500億、これらが一体どんな計算で得られたものなのかを気にした方が良いと思う。
 そうそう、この機会にちょいと挟んでおくが『経済効果という単語=関連事業の総利益』と読み換えてはいけない。いつからの習慣だよ、これ?
 あなた自身が選挙を通して『あんたがたに任すよ』と信用して渡した先が、いつの間にかこんなことをしていた。いや、果たして『信用して渡して』いたのか?

 だからこんなことになった。
 みんな考え方、暮らし方を変える時期だと思うよ。直そうぜ!

 再び築地に話を戻して、数字だけ見ての概略イメージで悪いが、改修計画の詳細を詰めて工期・経費ともに2割削減でGO、いざ実行に移して噴出する諸問題を懸命に解決して、そこから1割ないし1割5分オーバーで全検収を上げてクローズ。こんな感じじゃないかな。

 グローバル高度情報社会において、日本国には知財を主とする情報機軸の経済戦略が生き残りの道だとする説は珍しくない。確かに現状の日本国は情報にまつわる技術領域で先進国だし、間違ってはいまい。
 だが情報それ自体は、煮ても焼いても、もちろん生でも、ビタ一文腹の足しにならない。情報の何をどう細工しようが、それを介して『カネ』という経済社会の約束事に過ぎない価値スケールをいかに押し上げようが、自らの手の届く範囲から食べ物が調達できなければ、我々人間は生きていけない。

 この先進技術社会にあって、託児所で子供たちがまともに食えてないとか、家庭の貧困率が上がり子供の栄養が給食頼みだとか、大人は大人で献立内容がめちゃくちゃになり成人病が多発しているとか、基本生命維持のレベルで人間の作動が狂ってしまっている。
 日本社会の自我にも、自然の畏敬を真剣に感じる『食育』が必要な時代なのだと思う。
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